RPG

人生とはRPGのようなもの。仲間と出会うことがあっても操作できるのは主人公のみ。進む先を決めるのも進め方を決めるのも全て自分任せ。自由なのはいいことだが、時々自分の歩みに疑いを持つことがある。答えが出ないままのその迷いはいずれ将来の不安に変わる。そして歩みを止めてしまう。

これが孤独だ。

主人公

私という存在を客観的に見る。それはRPGの主人公を操作するかのように。「RPG」においての唯一のプレイアブルキャラクターは主人公。「私の人生」においての私。

ゲーム内の主人公は私の意思によって動く。それはゲーム内で私が存在するための器のようなもの。しかしそれは私であって私ではない。ゲームで国が崩壊の危機に晒された時、「この先どうなってしまうんだろう。」と思うことはあれど「この国はどうなってしまうのか、私はどうしたらいいんだ。」と頭を抱え眠れなくなることはない。それはゲーム内の主人公を客観的に見ているからだろう。ゲームの結末はある程度決まっている。その結末を変えることはできない。私たちができるのは目の前に現れる敵や困難に立ち向かい、戦うことのみ。それは私たちの人生でも同じである。現代という世界に産み落とされ「死」という結末は変わらない。やれることは、戦うのみ。そこで、自分の存在も客観的に見ればいいんじゃないかと思った。「私の体」というこの世の器を「私の意思」で操作するのだ。そうすれば「私の体」は将来安定した幸せを得られるのだろうか。などと考える必要もない。失敗してしまった時は「あ、私の体が怒られている。次は気をつけてプレイしよう。」程度に思えばいい。

私たちがすべきことは目の前の現実を全て受け入れ、戦うことだけである。

プレイヤーとしての幸せ

ゲーム内の主人公は確かに私ではない。が、私でもあるのだ。感動すれば泣くし、嫌な敵が出てくれば腹も立つ、ボスを倒した時の達成感もある。異次元の世界で起こっているといえど、ひとえに他人事ではないのだ。

ゲームにおいてのやりがいとはなんなのか。それは苦難を乗り越えた先の成長の実感だと思う。物語の感動も、勝てそうで勝てない敵への苛立ちも、ボスを倒した時の達成感も、全て主人公を成長させてきた過程の経験があるからこそ成り立つのである。とすれば、目の前に現れる困難っていうのは別に悲観的なものではないんじゃないだろうか。むしろ、成長するためのきっかけ、人生を彩る要素である。ならば、困難は避けるより受け入れる方がいい。なんなら、こちらから身を投じるくらいでもいいんじゃないか。最初の村から向け出さずに始まる物語はない。もちろん、身を滅ぼしてしまえば意味がないから、無理のない程度に。


とはいえ困難に立ち向かうというのもそうラクなものではない。乗り越えるためにはその都度レベルを上げなければならない。しかし、このレベル上げはとても作業的で孤独だ。次のステージに進まずとも今のステージでも十分楽しめるから、そこまでレベルも上げなくてもいいかな。なんて思もいながらも、ドラゴンと戦う勇者を見れば心が沸るし、絶景の広がる秘境があると聞けば見に行きたいし、一度くらいはお城に住んでみたい。夢を押し殺しながらも、身分相応と勝手に決めつけた場所でずるずる生きていく。なんて、なんのために生きてんだよ。今我々は人生というゲームをプレイしている真っ最中なのに。できることも、そのための時間もまだまだある。結末は「死」だけ。ノーダメージ、ノーミスなんてそもそも無理ゲーなんだから、いくらでもリトライすればいい。

たった一度だけしか遊べない、無制限の神ゲーを味わってやりたいと思う。