くだらない告白

「君を幸せにするから。」、なんて。くだらない。

今の自分じゃそんな感想しか抱けない。それは一生の愛を捧げる告白のような、人の覚悟に対する野次じゃなく。あくまでも自分に向けた言葉。詰まるところ、今の自分じゃ誰かに愛を捧げるなんてことすらも烏滸がましくてできないなって話。そりゃ自分だって人間だから人を好きにもなるし、自分を好きになってくれる人がいてくれるのなら、その人のそばにずっといたいしその人のために自分の全てを捧げたい。幸せにしてあげたい。

でも、今の自分じゃダメなんだ。叶えたいと思っている夢も道半ば。誰かのためになることをして、その対価としてお金をもらう。自分自身、それはおれがおれとして誰かの役に立たないと意味がないんだ。誇りも持てないような替えの利く歯車でもらうお金じゃ、腹は満たせても心が満たされない。

まだおれは自分自身もまともに幸せにできちゃいない。もちろん人並みの生活ができる幸せはあれど、自分を満たせる幸せまでは手に入れられてない。自分一人もろくに満たせない分際で何が他人様を幸せにするだよ。誰かに自分を捧げれば今までみたいに自分自身に使えていたものも使えなくなっていく。夢や目標は遠ざかっていくばかり。だからと言って愛する人を雑に扱ってしまうようなことは許されない。いつだって諦めるのは自分自身。もし夢に背をむけ別の幸せを手にしようとするのなら二度と振り返るな。孤独から逃げるために、夢を諦めるために、そんなことのために他人への愛を使うなよ。「くだらない。」

今の自分じゃ与えられるものなんて何もない。好きな人ができても家族ができても子供ができても、彼氏として旦那として父ちゃんとして何より自分自身として、与えられるものは何もない。夢を諦めた自分の背中じゃ誰もついてきやしない。

もし夢を追い続けそれが叶わなかったととして、生涯孤独になってしまったとしても、それはそれでおれの運命。受け入れる以外にないじゃないか。誰にも好かれずとも自分だけは自分の味方でいたいから。まずは、いや、前提として自分を幸せにしてやらなくちゃ。

そしたらいつか胸を張って言ってやる。

「君を幸せにするから。」


「君を幸せにするから」

 深夜二時。執筆の手を止め、冷めきったコーヒーを啜りながら、ふとそんな言葉が脳裏を過った。  ドラマの台詞か、あるいはどこかの歌詞だったか。あまりにありふれた、けれど甘美なその響きを口の中で転がしてみて、思わず乾いた笑いが漏れる。 「……くだらない」  静寂に包まれたワンルームに、自嘲の声だけがポツリと落ちた。

ただ、それは決して世に溢れる愛の告白や、一世一代の覚悟を決めた誰かの決意を嘲笑っているわけではない。誰かが誰かを大切に思い、人生を背負おうとする覚悟は尊い。そこに嘘はないと信じている。  この「くだらない」という言葉の銃口は、あくまで今の自分自身に向けられたものだ。鏡に映る自分を見てみればいい。夢を追いかけていると言えば聞こえはいいが、実態はどうだ。何者にもなれず、何事も成し遂げていない、中途半端な男がそこに立っているだけじゃないか。詰まるところ、今の自分じゃ誰かに愛を捧げるなんてことすらも、烏滸がましくてできないなって話。

もちろん、おれだって人間だ。心がないわけじゃない。街ですれ違う幸福そうな恋人たちを見て、胸が痛まないわけじゃない。人を好きになる感情だって持ち合わせているし、もし奇特にも今の自分を好きになってくれる人が現れたなら、本当はその人のそばにずっといたい。その人のためだけに時間を使い、その人のためだけに汗を流し、自分の全てを捧げてみたいと願う夜だってある。美味しいものを食べさせてあげたい。綺麗な景色を見せてあげたい。不安のない生活を与えてあげたい。「幸せにしてあげたい」

 でも、今の自分じゃダメなんだ。

叶えたいと思っている夢は、きっと道半ばにも達していないだろう。遥か遠く霞む山頂を見上げ、ようやく登山口に立ったか、あるいはまだ麓で準備運動をしているに過ぎない状態だ。生活のために、誰かの役に立つことをして、その対価としてお金をもらう。それは社会人として当たり前の営みだ。けれど、今の仕事は「おれ」である必要がない。マニュアル通りに動く替えの利く歯車。そこから吐き出される報酬で買うコンビニ弁当は、腹を満たすことはできても、心の飢餓感を埋めることは決してない。  おれにとっての「生きる」とは、ただ心臓を動かすことじゃない。おれがおれとして、独自の価値で誰かの心を震わせ、誰かの役に立ち、その証として対価を得ることだ。それができて初めて、おれは自分を「一人前の人間」だと認められる気がしている。

誇りも持てないような状態で、どうして愛する人に胸を張れる? 自分自身、まだまともに自身さえ幸せにできちゃいないのだ。雨風をしのぐ家があり、食べるに困らない程度の収入がある。それを「人並みの幸せ」と呼ぶのなら、確かにおれは不幸ではないのかもしれない。だが、魂が納得していない。自分を満たせる本当の幸せ、納得できる自分というものを、まだ手に入れられていない。

自分一人もろくに満たせない分際で、何が「他人様を幸せにする」だよ。 それは無責任な子供の妄言と同じだ。

リソースには限りがある。時間も、金も、そして精神力も。もし今、誰かに自分を捧げてしまえば、今まで自分の夢のためだけに注ぎ込んできたエネルギーは必然的に分散する。執筆に充てるはずだった時間はデートの時間になり、資料を買うはずだった金はプレゼント代に消えるだろう。そうやって夢や目標は遠ざかっていく。少しずつ、確実に。だからと言って、「夢があるから」という免罪符を使って、愛する人を雑に扱うことだけは許されない。「」釣った魚に餌をやらないような真似をするくらいなら、最初から釣り糸なんて垂らすべきじゃないんだ。 中途半端に愛し、中途半端に夢を追う。それが一番、誰も幸せにならない結末だ。

それに、もっと恐ろしいことがある。  それは「愛を逃げ場所にする」ことだ。 夢を追う道のりは孤独だ。評価されない日々、先行きの見えない不安、才能の欠如を突きつけられる瞬間。そんな冷たい風に晒され続けていると、人の温もりが恋しくなる。 「もういいんじゃないか?」  そんな悪魔の囁きが聞こえる。夢なんて諦めて、身の丈に合った幸せを手に入れればいい。誰かと一緒にいて、笑い合って、平凡だけど温かい家庭を築く。それは素晴らしい人生だ。否定されるべきものじゃない。 だが、今の俺がそれを選ぶのは「逃げ」だ。 孤独から逃げるために、夢を諦めるための言い訳として、他人への愛を利用するなよ。 それは相手に対する最大の冒涜だ。自分の人生の空虚さを埋めるためのパーツとして、愛する人を使うなんてことは、死んでもしたくない。

「……くだらない」 二度目の独り言は、先ほどよりも強く、重く響いた。 いつだって諦めるのは自分自身だ。環境のせいでも、誰かのせいでもない。 もし夢に背を向け、別の幸せを手にしようとするのなら、二度と振り返るな。 未練がましく「あの時、夢を追い続けていれば」なんて顔をして、パートナーを見つめることだけは絶対にするな。そんな男の横にいて、相手が幸せを感じられるはずがない。

だからおれは、今はまだ、孤独を選ぶ。 今の自分じゃ与えられるものなんて何もないからだ。 仮に今、運命的な出会いがあって、結婚して、子供ができたとしよう。旦那として、父ちゃんとして。何より「自分自身」として、おれが家族に見せられる背中はあるのか? 「父ちゃんはな、昔すごい夢があったんだ。でも諦めたんだ」  そんな情けない背中を見て、誰がついてきたいと思う? 誰がそんな男を尊敬できる?  夢を諦めた、抜け殻のような男の背中じゃ、誰も導けない。愛する人を守るための盾にもなれやしない。

これは賭けだ。人生をチップにした、分の悪い大博打だ。 もし夢を追い続け、それが叶わなかったとして。才能が花開くことなく、誰にも認められず、生涯孤独のまま朽ち果てていくとして。 それもまた、おれの運命だ。 その時は、潔く受け入れる以外にないじゃないか。 誰にも好かれずとも、誰にも愛されずとも、少なくとも自分だけは自分の味方でいられる。「お前は最後まで逃げなかったな」と、最期の瞬間に自分を褒めてやることができる。 中途半端に愛に逃げて、夢も愛も失うくらいなら、おれは誇り高い孤独死を選ぶ。

まずは、いや、前提として。 おれは、おれ自身を幸せにしてやらなくちゃいけない。 自分が心から納得できる「何者か」になり、自分の足で大地を踏みしめ、溢れ出るような自信と余裕を手に入れた時。自分のグラスが満たされて、初めてその溢れた分を誰かに注ぐことができるんだ。

恋にうつつを抜かすのは、その後だ。 今は暗闇の中で、爪を研ぐ時期だ。泥水をすすってでも、地べたを這いずり回ってでも、見据えた頂へ手を伸ばし続ける。

けれど、もし。 もしも、この長く険しい道のりの果てに、自分だけの旗を立てられる日が来たなら。  自分が自分であることを誇れる日が来たなら。 その時は、全速力で愛を探しに行く。 その時隣にいてほしい人がいるなら、なりふり構わず迎えに行く。

そして、その時こそ、一片の迷いもなく、心の底からの真実として、胸を張って言ってやるんだ。  今の自分には決して吐けない、世界で一番重くて、尊い約束を。

「君を幸せにするから」

 そう言える日のために、今夜もまた、おれは孤独なデスクに向かう。