連勤

今日も今日とて向かう先は同じ。毎日通うこの中央線一号車、24時間経てどついさっきまでここにいたような気さえ思える。さて、本日は連勤最終日、明日は待ちに待った休日。のはずなんだが。なぜだろう、オレの心は微塵も浮かれる素振りを見せようとしない。

今は全てがどうでもいい。予定の電車を一本乗り過ごしてしまったことも、車内で大声で話す外国人も、車窓に映る寝癖が見窄らしいオレも。同じ空間にいるのにオレ一人だけが違う空気を吸っているような、不思議な感覚。視界に入る景色も耳に入る雑音も、表面を流れるだけで決してオレの意識を通過しない。しかし乗り換え駅到着の車内アナウンスだけは意識的に聞き取ろうとするのだから、オレの脳みそはすでに何かに支配されつつある。

乗り換え駅のホームにて、偶然目に留まった広告。特に目立つわけでもないペット保育園のただの広告。そこには満面の笑みを浮かべるフレンチブルドッグの写真が写されていた。ただ、それだけなのに。なぜかわからないまま、急に笑いが込み上げてくる。その一瞬時が留まったように感じた。実際、時間にすればたった数秒だたろうが、広告を前に立ち止まり自分の世界で笑い続けた。

「そうか、そうだ、そうだよな。おれ、疲れてんだわ笑」

それがわかった瞬間から、体がスッと軽くなっていく。自暴自棄で全てを投げ出すような感覚じゃない、今まで背負っていた重たい荷物を一度背中から下ろすだけのような感覚。今、オレの周りを通る人間たちが広告を前に笑うオレを見てどう思っているのか、おれはどう思われているのか、そもそも見られているのか。大都会、通勤ラッシュのど真ん中でそんな思考が過ぎるが何も気にならない。いや、気にするほどのことでもないことに気がついたんだ。ストレスは気がつかない程度で塵積もり、気づいた時には押しつぶされている。いや押しつぶされていることにさえ気がつかず潰されてしまうことの方が多い。まるで、常温から茹でられるカエルのように。だからこそ、ふとしたときに背負ってるものを下ろしてみる。何気ないものに救われるっていうことは本当にあるもんだ。

「そんなに重たいものを背負ってどこにいくんだい。それじゃ芝生さえも走り回れないじゃないか。身軽になれば走っているだけで楽しくて笑えちゃうんだじぇ。」

広告に映るブサイクながらも愛おしいその笑顔がオレに問いかけてきた気がした。

さあ、そろそろいかなきゃ。

ついてないの一言で片付けられないような最悪な日も、開き直ろうが抱え込もうが”二度と来ない今日”だとわかれば、それはそれで案外笑えちゃうよな。明日の休日、目的もなしに遠くの土地にいってみるもの悪くないかな。