こうあるべきだ

多様性。みんな違ってみんないい。それぞれの個性を認めましょう。

最近ではそんな言葉が謳われるようになったと同時に、「こうあるべきだ」という言葉が規制されている。が、言葉自体には別にいいも悪いもないと思う。大事なのはその言葉をどこに向けるかだ。「〜であるべきだ」という言い方にはその人個人の願望が含まれる。だから他人に向けると押し付けがましくなる。特別な発言力があるか何か個人的な感情を持つ人でもなければ、ただの一般人に言われてもうるさいだけ。そういった言い方を向けていいのは自分自身にだけだ。

逆に自分の願望を惜しみなくぶつけられる唯一は自分自身のみだ。「こうありたい」、「こうあるべきだ」、自分の中にある理想を大義として掲げる。その大義が周りに認められなかった時、または否定された時に、どうにかして自身の大義を認めさせてやろうと思ってはいけない。絶対に他人に振りかざすな。あくまでそれは自己満足。自分がかっこいいと思っているからやっているだけ、という前提のもとにあれば他人の評価にも笑っていられるし、徹底的に理想を詰められる。迷いがない奴が強いのはそういうところからだろう。

人はそれぞれ大義を掲げてる。それが自分の掲げる大義に反するかもしれない。もしそうなら、その人とは距離を置けばいいだけの話。合わない人間とは合わないし、合う人間も絶対にいる。個性を認めようとはそれを理解すること。相手の色を無理に受け入れ寄り添おうとすることじゃない。合わなければ関わらない。冷たいように思われそうだが、私は実に平和的な考えだと思う。無理して寄り添い合う関係になんの意味がある。そんなことで寄り添ってこられるのも少し屈辱的に思える。

掲げる大義に矛盾を感じ本当にこれでいいのかと悩む時もある。そんな時は思いっきり悩めばいいと思う。解決しなそうなら開き直りながら、それでも納得がいかないならまたそいつに向き合う。なりたい自分がないっていうのは嘘だよ。「なりたい」が「なれない」に押しつぶされている。大義は自分だけが知っていればいいんだ。だから人に直接自分の大義を否定されるようなことはそんなにないはず。ならば恥ずかしがる意味はない。理想に自分の旗をぶっ差しにいけ。