どうしようもないほどの感情を抱えるた時。どうにかしてその感情を外に出そうとする。笑う時もあれば涙を流す時もあるし、怒りになることもある。しかし、この感情をどう面に出すかを自分で決めてコントロールすることは難しい。例えば、喫茶店にて店員さんが目の前で運んでいたコーヒーをこぼしてしまいたまたまそれが自分にかかり服が汚れてしまった場合。内から込み上げる感情をどう捉えるのか。「おい何してんだ!服が汚れちまっただろ!」と相手の失敗に対しての怒りとするか、服が汚れてしまったことに対してただ単純に子供のように悲しむだけなのか、はたまた滅多に起こらない偶然として面白さを感じ笑って過ごすのか。内にある感情を発散できればなんでもいい気もするが、それをどう形にして外に出すのかで原因となった事象への捉え方が大きく変わってしまう。なんでも笑って過ごせればいいのだけれど、やっぱりどうしても怒りとして相手を責めてしまう機会の方が多い。しかしなぜそこまで怒ってしまうのか。きっと自分を正当化することで落ち着きたいのではないだろうか。怒られる人は怒っている人よりもその時点での立場が下になる。逆にいえば、相手を怒ることで一時的だとしても相手より立場が上になる。きっとそこに何かしらの安心感があるのだ。起こられる側も追い込まれれば、そこからくる不安を解消しようと立場の逆転を試み反抗する。そういった流れで論点がずれ的外れの論争になるのだろう。
自分の感情を解消することに相手を利用しようとすれば状況は悪化する一方になる。無駄な感情を抱えたくないのは誰しもが同じなのだから。とすれば、感情を涙として流すことで解消できるのならそれは素敵なことではないのか。「そんなことでいちいち泣かないの。情けない。」そう言われながら育ってきた人も少なくないだろうが、他人からすればそんなことだとしても自分にとっては重要なことだったりすることもある。
それなら泣いてもいいんだよ。しょうがないじゃん、勝手に流れてくる涙は止められないんだし。泣くことが弱いことだとしても、自分の弱さに目を背け怒りを他人にぶつけ自分を正当化しようと捻くれるくらいなら、自分の弱さを認めて思いっきり泣く方がマシだ。それがどんなに些細なことでも、それが自分なんだから認める以外にないじゃないか。嫌なら強くなるしかない。
涙の数だけ強くなれるよ。なんて言葉を聞いたことあるが、あながち間違いではなさそうだ。涙を流すことで気持ちを切り替え明日を迎えることができたなら、それを続けた先で同じ涙を流すことは絶対に減っていく。一万回泣かされたのなら、一万通りのストレスで同じ涙を流すことは無くなるだろう。鍛えられた心の器はどんなストレスも受け入れられるようになり、いずれそれが他人に怒りをぶつけるこのない優しさというほんとの強さになるんだろう。
そうとわかれば、今日から胸を張って泣き虫を曝け出そう。ほんとの強さが欲しいから、優しい人間でいたいから。泣いてしまうことの恥は成長の糧だから目を逸らしちゃいけないんだ。