物事は便利に越したことはない。苦労をかけずに時間をかけずにあんなことやこんなことできたらいいな。そんな我々の妄想を叶えてくれるのがドラえもん。例えばどこか遠くの場所に行きたいと思った時、ドラえもんはどこでもドアを出してくれる。どこでもドアがどういう秘密道具かは説明するまでもないだろうが、行きたいを唱えた後に扉を開けばそこはもう目的地だ。それが例え南極から北極までであろうとも、移動時間はたった1秒くらいだろう。
さて、このどこでもドアはどこでも好きなところに瞬時に”行ける”というのが特徴だが、私はどうしてもこのどこでもドアの使用に対し”移動”というニュアンスを使うことに違和感がある。もしもっと極端に移動時間が短縮されたとして、例えば「どこでもスイッチ」みたいなスイッチを押すだけで目的地まで自身の体が転送される、みたいな道具が誕生した場合。きっと使用する側としては自分が目的地に移動したというより、目的地が目の前に出現したという感覚の方がしっくりきそうだ。だって、移動時間が0になるというのは待つ側の感覚じゃないか。どこでもドアも同じことで、ドアを開けた瞬間目の前に目的地の方からやってくる感じ、言うなれば空間のデリバリーだ。移動に対し便利を突き詰めたことで、そもそも移動すること自体いらないんじゃね、という結果に辿り着く。なぜかそれが少し悲しく思う。
便利ってのはとてもいい。対象から無駄を取り除き効率化していく。だけど、その無駄が必要なこともある。旅行だってその一つだ。どこでもドアがあるような世界からすれば、高いお金と時間、労力を払って目的地に向かうなんてことは無駄なことでしかないだろう。だけど、その無駄に価値を見出すのが旅行だ。どこにいくかっていうのはそこまで大事じゃなかったりする。誰とどうやってそこにいくのか、道中で何をして何を食べよう、何か新しい発見はないだろうか。旅の思い出はそういう場所からも生まれる。
無駄を除くだけが便利じゃなくてもいいんじゃないかな。無駄と思えるものにかけがえのないきっかけを与えてくれる便利があってもいいじゃないか。たまにはどこでもドアじゃなくて、お気に入りのシューズと旅のおやつを出してくれるような。そんなドラえもんの回があってもいいんじゃないかな。