学級教室

学校においてクラスの縛りが強すぎる。

「うち(のクラス)はうち、よそ(のクラス)はよそ」、そしてクラスのリーダーは担任の先生。学校では学年によってそれぞれ独立した集団「クラス」を形成する。授業やイベントごと、もっと言えば生徒の管理をするにはとても便利な仕組みになっているのだろう。だけど、それによる弊害もある。その一つに「いじめ」があると思っている。

一つのクラスは大体数十人の学生と一人の「担任」と呼ばれる大人で構成されている。学生の役目は勉強をすること。勉強をするだけなら「授業をする側」と「授業を受ける側」がいれば成り立つから最低2人いれば成り立つ。つまり、同じクラスに属する学生数十人は役目を果たすのに互いが協力する必要は全くない。同じ空間にいるだけでそれぞれが個別に役割を果たしている。じゃあ、クラスの学生同士が関わることはないのかというと、そういうわけでもない。お互いに気が合う者同士が集まり「友達」という関係をもってクラス内にそれぞれが小さなコロニーを形成する。この友達同士で勉強が行われる授業時間以外の時間を共に過ごしている。クラスの中には気の合う相手を見つけられずに孤独になるものも出てくる。そういった個体が時折いじめの対象となる。「あいつ変なやつだよな」、その言葉に対して「確かに」と共感の言葉が発せられ、一つの集団の中に一つ攻撃対象の的ができる。一つの集団に対してある共通の的(目的、共感)ができると、その集団に結束力と安心感生まれる。スポーツや戦争なんかも共通の敵がいるから、チームとしての結束力や安心感生まれるのと同じだ。

さて、もしいじめを防ごうと思った時どうするのがいいのだろうか。私は、孤立してしまった子供を別のクラスに移してしまえばいいと思う。合わない人間(環境)とはどうやっても合わない。ならば自分で気が合う奴を見つけにいけばいい。

しかし、クラスのリーダー「担任」はそうは考えない。「いじめる奴を更生させて、クラスみんなが仲良くできるように努めよう。」、そう考えてしまうのだ。仮にいじめっこといじめられっ子が距離を取ろうとしたとしても、無理やり引き合わせようとすれば関係は悪化するだけだ。そうなればいじめられっ子は逃げ場を探し始める。探すべきは逃げ場じゃなくて自分に合う環境のはずだ。大人がクラスにこだわるせいで、いじめられっ子はクラス(学校)にいくか、行かないかの選択肢しか取れなくなる。身を守るならクラスに行かないのは正しいだろう。だけど、その場所は「逃げ道」として選んでいるわけだから自己肯定感も失われていく。

社会はもっと自由だ。社会不適合ってのは目の前の社会が自分に合っていないだけ。この地球上には人間の数だけ社会がある。自分に合う社会だってきっとある。というより、自分がどこの社会にも合わない唯一の存在なのだという方が難しい。とすれば、自分を否定する理由がどこにある。