子供の頃は周りの目を気にして遊ぶことはなかった。小学生に上がる前、自分はロボットのおもちゃで遊ぶのが大好きだった。ただ遊ぶのではなく、戦いの経緯やそれぞれの配役など設定を細かく決めた上で遊ぶのが好きだった。まるでシーンを切り替えるかのように何度もロボットを持ち変え、役ごとに声色も変えた。監督、声優、全て私の完全妄想劇場、それが小さかった頃の私の大好きな遊び。なんの疑問もなくただ純粋に好きだった。
小学生に上がった頃から、私はその純粋さを失い始めた。クラスでは携帯ゲーム機が流行。もちろん自分も母ちゃんに買ってもらうようおねだりをした。単純にクラスの流行に乗りたいと言う理由もあったがそれ以外の理由がもう一つあった。それはクラスの中で「おもちゃは小さい子供が遊ぶもの。小学生になったらゲームでしょ。」という風潮があったから。私は「いまだにおもちゃで遊んでいるダサいやつ」からの卒業のきっかけにしたかった。結果としてゲーム機は手に入った。同時に私はこれまで私の妄想劇場に携わってきたおもちゃたちを押し入れの奥へとしまった。
もちろんゲームをするのは大好きだ。だけど別におもちゃ遊びも飽きてしまったわけじゃない。いまだにおもちゃで遊んでいると思われることが恥ずかしかった。周りの目を気にして自分の好きなことに蓋をして、初めて「自分も君たちと同じだよ」と建前を取り繕ったのだ。その頻度は年齢を重ねるたびに増えていく。自分が好きだと言えるかどうかは周りからの視線を基準にして決める。大人になって空気を読むことと本音を隠すことの区別がつかなくなってしまった。
子供の頃は大人になれば自分の好きなことを好きなだけできるようになると思っていたが、案外そうでもないみたいで。やりたいことなんて特にないなんて大人はたくさんいる。きっと1ヶ月の夏休みを与えられたとしても、時間を持て余して「こんなに休みはいらない」なんていう大人は多い。毎日遊ぶことに夢中になって一瞬の夏休みを過ごせるっていうのはすごいことだ。好きなことに蓋をしていると好きなことがわからなくなる。自分の中から本当の純粋さが離れていくことで大人になっていくとするのならば、大人になるということはとても寂しいことのような気がする。きっと今でもその純粋さは求めている。懐かしく思うことで心が落ち着くのはその証拠だろう。